絶望から希望へ。東京農業大学に入りたいと決意してから合格まで。(それまで生きてきた中で一番辛い出来事と一番嬉しい出来事味わう)

私は高校中退後、大検は取得したものの将来の見通しもつかずに絶望していました。

私には学歴も何もない。明るい未来なんてない。人生もうおしまいだと思い、母に私なんて産まないで欲しかった、安楽死させてくれと泣き叫ぶ日々を送っていました。

母もさぞかし辛かったと思います。

けれど私は母のことを思いやることができませんでした。

私に高校中退を安易に勧めてきて、結果私はこんなにも不幸になってしまった。それなのに責任も取らずにあやふやな母に、腹が立ちました。

そのような日々の中で、母も頼りにならなかったので、自分の力で道を切り開くしかないと思いました。

私は崖っぷちに立っていました。

今頑張らないと人生終わると思いました。

私は大学に進学しようと決意しました。

学校案内を買ってきた読んでいたら、東京農業大学に目が留まりました。

都会の中でも自然が豊かなことや、流行を追ったり気取ったりせずに自然体で通えるのではないかと思い、強く惹かれました。

栄養や料理にも興味があったので、栄養学科があることにも魅力を感じました。

絶対入りたいと思いました。

勉強は嫌いだったのですが、辛いことも耐えて何としてでも合格しようと決意しました。

十七歳の時、私の受験勉強が始まりました。

中学の勉強もあやふやな状態でした。始めは自宅で基礎を固めようと思いました。その後、学校行ってたら高校三年の時期に予備校に入ろうと計画しました。

机に向かう習慣をつけることから始めました。自分の忍耐力との戦いでした。

机に向かっていると何度も眠くなりました。でも私は無理やり起きながら頭が働かないのに自分にムチを打ち勉強しました。仮眠をとったほうがはかどったと思います。けれど罪悪感を感じてしまったので意地でも起きていました。

私の受験勉強の仕方は間違っていたと思います。もっと効率の良いやり方もあったと思います。でもそれをアドバイスしてくれる人もいなかったです。

十七歳の春、私は集団で授業を受けるのが苦手だったので、ビデオを見ながら自習室で学習する小規模な予備校に入りました。

自習室で高校生が友達と楽しそうに話しているのを目の当たりにすると、高校行っていない自分が惨めに感じられました。でもこの人達には負けたくないと思い、私はひとりでしたがずっとひとりで頑張りました。

私には克服しないといけないことがありました。テストを受けることが怖かったのです。いくら努力して勉強しててもテストの点が悪かったらどうしようと結果を知るのが怖かったのです。

でも一回だけ受けてみました。合格圏内だったので少し安心しました。

それでも試験が近づくにつれて精神が不安定になり、自分の部屋では落ちたことを想像して常に怯えていました。涙が止まらなくなったり絶望的な気持ちになったりしていました。

母は料理は毎日作ってくれるのですが、私の受験勉強にはノータッチでした。母と会話することもほとんどなかったです。

冬になりました。母が突然亡くなりました。

私は取り乱して泣き叫び続けました。それまで生きてきた中で最も辛い出来事でした。

父と姉と私三人で絶望感を感じながら、泣きながら夜中じゅうも話し合いました。みんな憔悴しきっていました。

私は今まで母に酷い扱いをしてしまったと思い、自分を責めました。

母が亡くなり、お葬式やいろいろとしないといけないことも増えました。

引っ越しをして、一時的に父と暮らすことにもなりました。父の単身赴任先に引っ越すと、床も見えないほど黒ずんでいて部屋が驚くほど汚かったです。

私は、母も受験勉強のさなか突然亡くなるし、部屋も汚いし、生きていたらこれほどまで辛いことにも直面するのだと悟りながら部屋の掃除をしました。

私の勉強部屋はカビだらけの四畳半の畳でした。

私は二週間ほど全く勉強できない状況でした。

それでも受けたほうがいいと父に言われたので、母の死に対しての罪悪感などの私の気持ちをいったん切り離さざるを得ない状況に追い込まれました。

精神的には限界を超えていました。夜寝ていると悪夢に襲われ、汗だくになったりもしました。

試験が近づいてきました。

私は絶対受からないといけないという、大きなプレッシャーがありました。

様々な学科を受けて、五回ほど受験しました。極度に緊張して全く駄目だった日もありました。

結果栄養学科は補欠で落ち、国際農業開発学科に受かりました。

それまで生きてきた中で一番嬉しかったです。

受験勉強の圧迫感からも解放されました。

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